田舎暮らしのスィンカ

晴れの日は自然と戯れ雨の日は堂々と引きこもり

無職は震災の心配すら許されない

僕は無職である。今年に入ってすでに百社以上エントリしているが、まだ書類選考は通っていない。地震のときも呆然とテレビを見るしかなかった。まあ、千円ほど募金をさせてもらった。僕の財布はマジで大丈夫なのか? と自問自答しながら寄付した。役立ててほしい。

 

しかし僕は心配するだけで、まったく無力である

およそ10年前も無職で東日本大震災をテレビ越しに眺めていた。

次に大災害があったときは、無職から脱して、弱っている人々の力になろうと考えていたら、まだ無職である。また無職というべきか。

今は自分の心配をしたほうがいい。これが事実だ。

無職になると人の心配すら許されない。無職というのは同じ国の人間ですらないのかもしれない。ああ、早く人間になりたい。

 

優秀でバイタリティある人々ってこういうとき何しているんだろう?

僕は優秀ではなくバイタリティもない、就活・転職市場ではゴミのような存在である。

スポーツの試合や大会は行われているけど、彼らはそういうのを中止して、一日炊き出しとかできないのだろうか? こういうときは体力勝負なので、ラグビーで鍛えられた人が来るだけで随分と頼りにされるだろう。がれきや食料を運ぶだけでめちゃくちゃ喜ばれるだろうに。

さすがに野球の試合に出たいから移住するという高校生がいたのはもう判断力がバグっていると思った(それをいい話のように報道しているメディアも)。もちろん地域の人々や家族と不仲だったりしたらそれもありかもしれないが、そうは見えなかった。

残念ながら数百年に一度の災害が身近に起こると、個人の小さな夢はあきらめなければならない、と僕は考える。もちろん、日本や世界を変えるくらいの大きな夢があるのならあきらめる必要はないかもしれないが。